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中庸を保つー「100%のいやし」を語る危険

るちゃんです。。。🐸


実は、先週の木曜日から今週の火曜日まで入院していました。


先に、今月になってから腎盂腎炎になったことを書いたのですが、その時は近所のクリニックで二日間通いで抗生剤の点滴を受けました。(本当はもっと通うべきでした)


おそらく完治していなかったので、ちょっとした疲れでまたしても再発に至ったのだと思われます。


さて、私は「神のいやし」を信じるクリスチャンです。


しかし、福音派の教会で育った私は長年、「神のいやし」に関しては本当に無知な者でした。


病気になったらこの世の人達と同じように薬を飲んだり病院に行く・・・それだけでした。


いやしの信仰とかいやしのみことば、いやしを求める祈り、そういうものとは無関係に生きてきました。


ところが、後になって超教派をうたっている集会に行くようになり、それまで聞いたことがなかったような信仰について聞くようになりました。


そこでは、「100%のいやし」が語られていました。


つまり、いやしは救いの中に含まれる、という考えでした。


風邪薬の総合カプセルを例として、何度も聞かされました。


このカプセルの中には、頭痛を抑える薬、解熱効果のある薬、鼻水を止める薬、喉の炎症を抑える薬がもろもろ入っており、総合して風邪薬なのである。


それと同じで、救いの中には病気のいやしも含まれているのだと。


確かに、「いやされました!」という証もたくさん聞いたし、私自身もある事柄においてはいやしを受けた体験があります。


しかし、何でもかんでもではありませんでした。(現に今も脊髄損傷です)


その点については、納得のいく説明を受けたことはありませんでした。


そして、本来なら喜ばしい「いやし」が逆に私を追い詰めていきました。


追い打ちをかけるように聞かされたのは、次の聖書箇所でした。


アサはその治世の三十九年に足を病み、その病は激しくなったが、その病の時にも、主を求めないで医者を求めた。 (Ⅱ歴代誌16:12)


今でも、このみことばから、クリスチャンが病院に行くことを不信仰だと語る人がいるようですが、当時私が通っていた集会の牧師もまたこのみことばを何度も引き合いに出していました。


とは言っても、自分が医者に行くことを否定しているのではなく、かつて自分の父親(クリスチャン)がこのみことばを読んで、「これは神の嘆きのことばだよ。」と何度も語った、ということを私たちにも語ったのです。


だから、直接的ではないにしろ、やっぱりクリスチャンが病気になって病院に行くことをやんわりと不信仰者扱いしていることには違いないのです。


大真面目な私なんぞは、こんなに重度の障害を負っていて、体のあちこちにそれに付随して起こる様々な症状や後遺症を抱えているにも関わらず、病院に行くことが悪いことであるように感じてしまいました。


そして、たびたび起こる腎盂腎炎に関しても、とうとう病院に行かない、という選択をするまでになってしまったのです。


今思うと、自殺行為であったとゾッとします。


もちろん、私はいやしのみことばに伴う神のいやしを心から信じていましたが、それで完治すれば問題はないのですが、それでも治らないこともあるのです。


その集会では、いやしがいとも簡単に語られていました。


切断した腕や足だって、イエスの御名で祈ればピューっと生えてくるはず・・・


そういうレベルのことばで語られていたのですから、脊髄損傷で車椅子ユーザーで歩けない私は、絶対に歩かなければいけないのです!


ましてや、いやしが救いのなかに含まれるとなれば、私が立ちあがって歩けないほうが間違っているのです!


9年間、私はこういう教えの中に身を置いていたのですが、本来素晴らしいものであるはずの「いやし」はますます私を追い詰めました。


ある時私はその人物にこうも言われました。


「今いやされなくても、リバイバルが来たらいやされます。」


つまり、あなたの場合はリバイバル待ちです、という具合に。


う~む、ますます納得できない!


このことが直接の原因ではありませんでしたが、私たち夫婦はその集会に行くことをやめました。


それでも私は、どんなにいやしを受け取る信仰を持っているクリスチャンでも、いやされない人々もまた多く見てきたことへの疑問を無視することができず、神様に何度も祈りました。


「なぜですか?どういうことですか?」


そして、ある時私は、ジョン・ウィンバー牧師の本「力のいやし」に出会ったのです。


この本との出会いは本当に不思議な経緯で、神が私に出会わせてくださったとしか思えないのです。


そこには、私の疑問に対する答えが見事に書かれていました。


もちろん、すべて聖書の中からです。


ジョン・ウィンバー牧師は、いやしの器として多くの素晴らしい働きに用いられている人物ですが、この人がはっきり言っているのです。


「いやされる人が多くいるのと同じくらい、いやされない人も多くいる」と。


なんと彼自身、心臓に疾患を抱えており、なおかついやされない側の人物であると正直に語られています。


私は今まで数多くのいやしに関する本を読んできたつもりですが、どの本を読んでも、いやしを受けられなかった人々に対する説明は、〈不信仰・呪い・赦さない心〉は別としてそれ以外に見つけることができませんでした。


また、旧約のアサ王が両足の重い病気にかかったとき、神よりも医者を求めた、と書かれていることに関しては、こう説明されていました。


この時代の「医者」は、いまで言うならオカルトや魔術を使って病気を治す人たちのことです。ですからアサの罪は、いやしにおいて神を求めなかったことです。神にいやしを求めることと、通常の医療による治療を受けることとは、決して矛盾するものではありません。

ジョン・ウィンバー著「力のいやし」より一部抜粋 P234


現代においても、ある国においては医療にかかるよりも、村のシャーマン(呪術師)の元に行く、という話を時々聞きますが、そういう領域の話なのです。


つまり、主なる神に求めるどころか、サタン的な領域でいやしを求めたと理解すべきなのです。


医者にかかるのは不信仰という意味合いでこのみことばが引き合いに出されることが間違いであると知って、私はほっとしました。


更に、ジョン・ウィンバー牧師は、「100%のいやし」に関しても言及されていました。


ある人々は、先に私が聞いてきたように、いやしは救いの中に含まれる、という立場を取っています。


またある人々は、いやしは救いの延長線上にある、という考えを取っています。(ジョン・ウィンバーは後者)


救いは契約、いやしは恵み、という考えです。


すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。 (ローマ10:9~10)


誰でも、イエスが主であること、神がイエスを死からよみがえらせたこと、それを心に信じて口で告白するとき、人は救われ永遠のいのちを得ます。


これが救いの条件であり、誰でも100%必ず救われます。


しかし、100%のいやしとなると、聖書はそれを約束していません。


また、100%のいやしが真理であるならば、なんとこの私るちゃんは救われていないという事になってしまいます。


ありえない!とんでもない!


だから、いやしを受け取る信仰を持っているにも関わらずいやされない場合、「100%のいやし」を語る人々の言っていることは、それこそ辻褄の合わないことになるのです。


この人々はいやしという喜ばしいことを語るどころか、返ってある人々を追い詰め、不信仰のレッテルを貼り、結果兄弟姉妹を裁くことになってしまうのです。


私はかつてのように、腎盂腎炎になっても薬も飲まず病院にも行かないというような危険で愚かなことはもうしません。


しかし、いやしの信仰を失ったわけではなく、かえってもっと素直にみことばに伴ういやしを求める祈りができるようになりました。


感謝なことに、腎盂腎炎は抗生剤を投与されればほぼ確実に症状が収まるものだとわかっています。


これもまた神の恵みだと私は感謝しています。


それなのに、アサ王の例に関する間違った解釈を信じたばかりに、どんなに苦しくても辛くても病院に行かなかった過去のことが本当に悔やまれます。


また、後々知った事ですが、当時同じ集会に来ていたある姉妹が乳癌になってしまったのですが、祈りだけで癒しを受けると言って治療をせず、しかし癌は消えるどころが悪化して、病院にかかったときには、「なぜもっと早く来なかったのですか!」とう事態になったと知りました。


表向きにはどうしても、いやされた証しばかりが語られますが、もちろんそれはすばらしいのですが、不信仰や悔い改めていない罪以外の理由でも、いやしを受け取る信仰を持っていてもいやされない人々がいることがどうしても置き去りにされているのも現状だと私は思うのです。


おっと、タイトルに書いた「中庸を保つ」ことに関してすっかり話しそびれてしまいましたが、これは私が19歳、20歳のころに通っていたキリスト教の学校で聞いた言葉なのです。


そこはナザレン教団の学校で、私は2年間神学科で学んでいました。


当時の学長でもあり、ギリシャ語や牧会学やその他いろいろな神学的な学びを教えて下さった当時もう高齢であった瀬尾先生という方が口癖のように語っておられたのです。


「いいですか、みなさん。『中庸を保つ』ということを忘れてはいけませんよ。つまりね、船の片側ばかりに人が集まったら沈んでしまうでしょう。船の真ん中にいれば絶対に沈みませんよ。」


当時は何のことだか正直私はわかっていませんでした。


ですが、どんな学びよりも私は瀬尾先生のこのことばが耳に残っていたのです。


今、この先生のことばがどれほど私の信仰の上で役にたっていることでしょうか!


いやしなんかないという間違いと、どんな病も障害も信仰さえあれば100%いやされる、という聖書から逸脱した教え・・・


そうじゃなくて、聖書を土台に中庸を保つ考え方を私たちはするべきなのです。


また、間違ったみことば解釈も、偏った教えに陥る危険があるのだと自らの体験を通して、本当に痛い思いをして私は知りました。


しかし今回、緊急入院いたしましたが、みことばカードで使用しているいやしのみことば、平安のみことばなどなど、それらがどれほど私を支えてくれたかを思うとき、やっぱりみことばは素晴らしいと実感しました。


カーテンで仕切られた狭い空間の中での6日間でしたが、何があってもイエス様と共にいるのだという平安にまさるものはありませんでした。


みことばはイエス様です。


父なる神様に感謝します。


点滴で抗生剤投与されると共に、神様のクスリもしっかり飲みました。(暗記していればどこでも飲めるのです)



皆様の中にもし、病院に行くことが不信仰だと教えられて苦しんでいる方がおられましたら、私の体験とこの記事がお役に立ちますようにと願っています。


God bless you!


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