るちゃんです。。。🐸
中学生の頃から通っていた教会には、備え付けの教会図書があり、教会員なら誰でも自由に借りて読むことができました。
学校の図書館には決してないような信仰の本がいろいろあって、私は片っ端から借りて読んでいました。
中でも、とても印象に残ったのがジョージ・ミュラー(1805年~1893年:イギリスにおいての孤児院経営者)の本でした。
それでも、このような偉大な信仰者の本を読むとき、いつも疑問だけが残りました。
どうしてあんなふうに信じられるのだろう・・・
例えば、ジョージ・ミュラーが引っ越しをする時のエピソードは驚きでした。
船着き場で手伝いの男たちが荷物の積み替え準備をしていると、ミュラーの愛用していた椅子がないことに気づきます。
しかし船はもうすぐ出てしまいます。
誰もがもうあきらめたほうがよいと思っていたのに、ミュラーは「必ず来る」とばかりに平然としているのです。
とにかく本を読んでいる私でさえ、「あぁ、もう間に合わないんだから椅子ぐらい諦めなよ!みんなが心配しているじゃないの~」とどんなにヤキモキしたことか・・・
ところが!来るんですねぇ~
ミュラーお気に入りの椅子を積んだ荷馬車がちゃーんとやってくるのです。
私は、その後の孤児院経営において、たくさんの子供たちの食糧がないと言うときに、祈って不思議な方法で与えられるという奇跡ももちろん驚きましたが、何十年たっても椅子のエピソードのほうがずっと不思議に思っていました。
この人物のゆるぎない信仰ってどこから来ているのだろう・・・
ジョージ・ミュラー物語を読んでからずいぶんと時が経ってしまいましたが、やっと私にも、信仰とは何かを教えられる場に出会えたのがもう40歳にもなってからでした。
それは、誰でもきちんと説明さえされればわかることなのです。
もちろん聖書から説明されるべきです。
マルコ11:23~24のみことばは、まさに信仰の極意を示しています。
祈り求めるものが与えられると信じるのです。
そしてこのような明確な祈りができるのは、祈った通りのものが与えられるという【根拠があるとき】なのです。
しかし私たちは、個人で祈るときや祈祷会でみなで祈るときにも、思い付きのまま闇雲に祈ることのなんと多いことでしょうか!
そして結果を得られないで意気消沈することのなんと多いことでしょうか!
残念なことに、信仰にはいつでも根拠がなくてはいけないということがほとんど教えられていないのです。
何事でも、これが根拠だと思えるものがなくては信じることができないのです。
アメリカ最大のリバイバリストと呼ばれたチャールズ・フィニーは言います。
証拠が示されなければ、人は信じる義務も権利もありません。根拠もないのに信じることは、信仰とは言えません。
だから私たちは聖書の中にその根拠を見つけるのです。
何が神のお約束で御心であるか、それさえわかればどんなに力強く確信をもって祈ることができるでしょうか!!
ジョージ・ミュラーの持っていたあのゆるぎない信仰の根拠は、ただ聖書のみ、みことばのみであったのですね。
もちろん、聖書の登場人物の偉大な働きをした人々もそうです。
彼らの信仰の根拠は、いつでも先に語られた神のお約束のことばでした。
みことばが先にあるから、信仰が生まれるのです。
読んで字のごとく、神の仰せを信じること、それが信仰なのです。
みなさんは、神のお約束のことばを日頃から蓄えていますか?
今世界的に異常気象だと言われており、イエス様の再臨も刻一刻と迫っているように感じています。
世は変わります。
しかし決して変わらないものがあります。
どんな天変地異があろうとも、決して揺るがない神のことば、それこそ神の子供たちの希望であり、ゆるぎない信仰の土台なのです。
《みことばかえる塾》では、束縛や呪いからいかに解放されるかを伝えることを重要な働きとしていますが、それと同じくらい、信仰の根拠となるみことばを知ってほしいという願いを持って様々なみことばカードを作っております。
なぜなら、私自身が信仰の根拠となるみことばを蓄え始めてから人生が変えられて行ったからです。
もちろん、自信あふれる大胆な祈りもできるようになりました。(先にみことばのお約束を発見していれば誰でも大胆になれます。)
多くの方が、誰かに祈ってもらって人生が変えられることを望んでいますが、それは一時的な効果をもたらすに過ぎません。
赤ん坊がいつしか親のお世話から離れて一人でご飯を食べるように、私たちも自分で霊のパンを食べださなければ霊的成長は望めないのです。
食べること、蓄えること、それが大切です。
そうです、みことば備蓄を心がけましょう!
God bless you!
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