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執筆者の写真るちゃん

罪に打ち勝つ努力は役に立たない

るちゃんです。。。


今朝がた、おかしな夢を見ました。


私がアルコール依存症から解放されたことを、ある男性に必死に語っているという夢だったのですが、夢とは思えないほど、本当に一生懸命語っていました。


「あのね、私はかつてこの大五郎をこうやってラッパ飲みしていたほどなんですよ。だけどイエス様が私を解放してくださって、まったく自由にしてくださったんです!」


そう言っても、夢の中の男性は、「そんなのウソに決まってる!ありえない!」と言ってとても憤慨していました。


そして、自分の靴を大急ぎで履くと玄関から出て行ってしまいました・・・という夢。



きっと、多くの人がこういう感じだと思う。


この世の常識は、人は努力して変わるという考え方だからだ。



さて、私の好きなチャールズ・フィニーの「霊的力」の中にこういう文章がある。


罪に打ち勝とうとする自分の努力は何の役にも立ちません。それは聖書的でもありません。


肉の努力は一見何も悪いようには見えませんが、なぜ聖書的でないかと言うならば、それが信仰と何の関係もないからです。


肉の努力で解決するならば、イエス様は必要ないのです。


イエス様を信じて救われクリスチャンになり信仰生活をスタートさせたはずなのに、どうして日々の生活のことや目の前に立ちふさがる問題に関してはイエス様抜きで自分の努力で頑張ってしまうのでしょうか?


それは、「この世」で馴染んだ生き方だからでしょう。


150年も前に生きた大リバイバリスト、フィニーがこうも語っています。


集会で奉仕をすると、世と肉と悪魔の惨めな虜になっている信者を大勢見るのだと・・・


そして罪を犯すたびにどうにかして罪から抜け出したいと思いながらもついまた同じことをする人々。


しかしそれ以上にフィニーを悲しませたのが、多くの牧師が罪を克服することについて誤った教えをしていることだと語っているのです。


「罪に対峙して、それを捨てる決心をしなさい。そして克服するまで戦いなさい。罪の誘惑に決然と立ち向かい、祈りつつ戦い、従順が習慣となるまで忍耐し、罪の習慣をすべて打ち砕きなさい。」という類の教えだ。


そして取って付けたように「自分の努力に頼らずに神に助けを願え」と付け加えられるものだから、更にタチが悪い。


フィニーは、このような教えは無用なだけでなく、有害でさえあると言っています。


罪の本質と、罪から逃れる方法を見えなくさせるからだと言っています。


私はこのことが大変よくわかります。


いわゆる、ダブルバインドという状況ではないでしょうか?


ダブルバインドとは、相反する二つの事柄でがんじがらめにされることです。


車でいうならば、ブレーキをかけながら思い切りエンジンをふかす、というところでしょうか。


前に進むどころか、ぶっ壊れてしまいますよぉ!



よくある例がこれです。


多くの教会ではクリスチャンは罪人であるとさんざん聞かされる反面、聖く生きることを強調されるわけね。


誰もその意見の矛盾に気づくことなく、どうあがいても罪の誘惑からも逃れられず、ましてや聖い生き方などからは程遠い歩みをしてしまい、クリスチャンではなくクルシイチャンの出来上がり。


「お前はバカだ、でも東大に行け」と言われるのが絶対的におかしいのと同じように、「私たちは罪人です、聖く生きましょう。」もまたおかしいのだ。


イエス様の十字架によって流された血潮が私の罪をきよめてくださった、イエス様によって私は聖なる者、義なる者に変えられた、キリストの御霊が私の心に住んでおられるのだから私の人生もまたキリストに倣うものになっていくのだ!


そう!これが正しい聖書的な考えなのだ!



私は昔、アルコール依存症者たちの自助グループAAに参加していました。


その他、摂食障害の自助グルーブNABAや薬物依存の自助グループNAにも参加しました。


ダルクに行ったこともあります。


でも何も変わらないどころが、私の症状はますます悪化の一途を辿ったのです。


希望がなかったのは、誰一人完全に解放された人を見たことがなかったから・・・


希望がなかったのは、一度そのような依存症になったら生涯依存症のままだと聞いたから・・・


回復はあるけど完治はないと聞いたから・・・


仲間の力?


誰も彼も似たり寄ったりのどうしょうもない人間に何の力があるというのだろうか?


盲人が盲人の手をひくことになりはしないの?


そしてミーティングの締めくくりによくあるのだけど、みんなで輪になって手をつないでこう言うのだ。


JUST FOR TODAY!今日一日!


明日のことはわからないけれど、今日一日はお酒をやめよう、薬物をやめよう、と互いに鼓舞しあうのだ。


(摂食障害は過食をやめようという教えはなかった。無理に止めるなと言われていた。)


私はこれを言うたびになんだか不安な気分になった。


いつか飲んじゃうかもしれないのに、今日一日我慢することに何の意味があるのかよくわからなかった。


バカみたいだけど、いつか飲んじゃうかもしれないなら今日飲みたいよと思った。


それが正しいアル中の考え方だよ、まったく。


彼らはこんなに頑張って努力しているのに、時々死ぬ人がいるのも嫌だった。


久里浜病院に入院していたころ、伝説のように語り継がれていた話があった。


入院中はお酒を一滴も飲まず、生涯二度とお酒を飲まないと決心していたある男性、どうしても身内の結婚式があるからと病院の許可をもらって外泊したのだ。


後から聞くところによると、彼は結婚式というお酒とは切っても切れないような場所では気を張り詰めていて本当に一滴もお酒を飲まなかったそうだ。


ところが、彼は久里浜病院の目の前の野比海岸で溺死してしまった。


なぜ?


結婚式も終わって再び病院に戻るとき、自分一人になったとき、魔がさしたのだ。


病院に戻ったら飲めないから、その一歩手前の海岸で思う存分飲んでしまったのだ。


そのまま酔っぱらって海に入ってしまったらしい。


そして死んでしまったのだ。



これが人間の努力の悲しい現実・・・


久里浜病院の中から私もまた同じ海岸を日々眺め、いつか私もこの海で酔っぱらって死ぬのではないかと恐ろしい想像を巡らしていたっけ。


私は依存症だったとき、本当に惨めで悲しくてどうしようもなかった。


こんな人生なら生まれてこないほうがよかったと本気で思った。


とりあえずクリスチャンだから、早く死んでなんとか天国に入れてもらいたいと思った。


それから、お酒のないイスラム教の国に引っ越したらどうだろうかと愚かなことを考えたりもした。


いろいろな病院に行ったし、もちろん教会にもできる限り通ったし、助けてくれ~~と何度も神様に祈った。


けれど、私が信仰を使うまでは何も起きなかった。


信仰を使うってもっとわかりやすく言うならば、私の身代わりにイエス様が十字架について血潮流されたゆえに、私は神様の目からは義人であり聖徒であり圧倒的勝利者なのだと信じたときから、もはや罪の誘惑は私に対して何の効力もなくなってしまったのだ。





あまりにもあっけなくて、逆に説明するのが難しいほどだ。


これが、肉の努力ではなく信仰によって・・・という意味なのだ。



クリスチャンの中には、間違った信仰を使ってる人が大勢いる。


それはこういう考えだ。


「クリスチャンだって罪人なのだから、罪を犯したって仕方がないよ。」


私もかつてはそのように聞き、また信じていた。


だから信じた通りのことがこの身に起きていた。


私は今、「罪は私に対して力がない。またキリストにあって私は罪の誘惑に立ち向かえる力も得ている。」と信じている。





だから信じた通りの生き方になっている。


つまり、お酒の誘惑も過食の誘惑も、私にはいっさい無関係なのだ。


間違ったことを信じているなら、間違った人生になります。


また、家系に関わる呪いがほったらかしにされているなら、そのまま受けます。


しかし、イエス・キリストの御名と血潮により呪いを断ち切り、みことばの真理に立つなら、キリストと共に歩むようになります。


ハレルヤ!



40の真偽カードや私の証、「キリストにある依存症からの解放」のページもぜひご覧ください。


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