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自分から申請しないと始まらないのです。

執筆者の写真: るちゃんるちゃん

るちゃんです。。。🐸


私は16年前に脊髄損傷になり、膀胱直腸障害&両下肢麻痺で車椅子生活になりました。


(詳しい事情は「キリストにある依存症からの解放」をお読みくださいませ。)


生活の全てが一変しました。


それまで役所に用事があるといえば、住民票とか戸籍抄本などが必要なときにもらいに行く程度でした。


ところが、身体障害者(私は特に「害」の字にこだわりがないのでこちらで統一しましょう)になったとたん、障害福祉課に大いにお世話になることになったのです。


今でもそうです。


そしてわかったのですが、自分に必要な制度を受けるには自分から相談や申請手続きに行ったりしなければいけないのだということです。


本人が行かれなければ家族や委任状のある者が申請手続きします。


どちらにせよ、待っていたら役所の職員さんが気づいてやって来て、全部手続きしてくれるなんて都合の良い事はないのです。


さらに、自分がどの市区町村に暮らしているかも重要事項。


私は以前、豊島区民だった時期がありますが、後になって思えば非常にいたれり尽くせりで良かったなぁと思っています。


かなり厚めの「福祉のしおり」なるものを区役所でもらったのですが、それを見れば自分がどの支援を受けられるか一目瞭然でしたし、問題があったときにはどこへ相談すればよいかも親切丁寧に書かれていました。


私の障害レベルでは、申請すると毎月2万円も振り込まれるという助成金までついていました。


ところが、茨城県の今の地域に引っ越してきて、同じような感覚で市役所の障害福祉課に行ったら、「え?別の国に来てしまったの?」と思うくらい悲しい現実に直面しました。


2万円?あるわけないっしょ。


拠り所である「福祉のしおり」もないじゃん・・・(今作ってるところだと言われた)


基準となるものがないというのは本当に困るのです。


ところが夫であるるちゃ夫が後にここの市役所の障害福祉課に障害者雇用枠で採用されることになりまして、私としては願ったり叶ったりで大いに助かりました。(るちゃ夫も身体障害者です。)


わざわざ自分で出向かなくても、わからないことがあればるちゃ夫に言づけて職場で聞いてきてもらえるし、提出書類もるちゃ夫に渡せば出してもらえる等々、本当に主に感謝!でした。(今は役所での仕事はしていません)


さて、自分で相談に行く、申請に行く、手続きする、という事に関してかつてこんな事がありました。


それは私の事ではなく、かつて職業リハビリセンターの寮で同室だった同じ脊髄損傷の友達の事です。


そこを出て数年後、彼女もまた結婚しました。お相手は私も知っている男性で彼も車椅子使用者でした。


彼らは東京で暮らし始めていましたが、ある日ヘルパーさんを利用するにはどうしたらよいかと電話で相談を受けました。


私は2011年から週2でヘルパーさんに来てもらって家事援助をしてもらっていましたので、既にどんな手続きが必要かわかっていました。


それでまずその友人に役所に行って、ヘルパーさんが必要である旨を話してみたら相談に乗ってもらえるから、と伝えました。


後日、どうなったか電話で聞いたらビックリ仰天!


障害福祉課で対応してくれた男性職員さんは、二人とも車椅子使用で来ている夫婦に対して、「あなた達のヘルパー利用は月に一度で十分でしょ。」と言ったのだそうです。


体に麻痺があって車椅子に座っている人間が家を掃除するということがどれだけ大変なことか、わからないのだろうかと私は呆れてしまいました。


その友人は私よりもうんと年下だったし、頼れる家族もおらず、なんとも気の毒になってしまいました。


気の毒どころか我が事のように腹が立ち、「私が話してみるよ」とばかりに、ネットでそちらの役所の電話番号を調べ、彼女が話したその男性職員に直接話をしました。


なんで茨城から電話してくるのだ、あなた関係ないでしょ、などと言われたけれど、私もだまっていられない。


「友達が困ってるんですよ。私は茨城県に住んでいて彼女と同じ障害を持っているけれど、今週に2回ヘルパーさんに来てもらっています。ところであなたのお宅は月に一度しか掃除しないのですか?月に一度しか風呂掃除しないんですか?車椅子の彼女がどうやって風呂掃除できると思ってるんですか!」


ところが、その電話は一方的に切られてしまいました。


ガチャリ!


う~~む、諦めてなるものか!


どうしたら良いだろうかとしばし考えて、次はこの職員さん以外の障害福祉課の人に話そうと思いました。


内心ドキドキしつつも再び電話をしたら、女性の声がしました。


簡単ないきさつを話したら、「○○にお電話変わりましょうか?」と言われたので、「そうじゃないんです、あの人には絶対に変わらないでください。」と更に話を続けました。


その方は、私の友人が夫婦そろって車椅子なのに、ヘルパー利用は月に一度だと申し渡されたことが非常に理不尽であると理解してくださいました。


それから話はトントン拍子に進み、我が友人宅にもヘルパーさんが毎週来てくれるようになりました。


ついでに、最初に理不尽な対応をした男性職員は我が友人に、「お友達に謝っておいてください。」と言づけたそうだ。


想像するに、そのとんでもない対応が他の職員さんたちにも伝わってそうとう問題になったのだと思う。


とまぁ、かつてこんなことがあったのですが、自分のほうからグイグイ対処していかないと事が進まないことに関して、クリスチャンである私は聖書にも同じようなことが書いてあるなぁと思うのであります。


ルカの福音書18:1~8

18:1いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。

18:2「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。 18:3その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。 18:4彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、 18:5どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」 18:6主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。 18:7まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。 18:8あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」


この箇所を思い出すわけね。


そしてまた、先にお話ししましたように、「福祉のしおり」が充実している市区町村とそうでない地域では利用者側の益・不利益に大変な差があると申しましたが、私たちクリスチャンの「しおり」は聖書ではありませんか!


この聖書にこそ、神の御心は何か、神の子供たちに約束されているのはどんなことか、全てが詳細に書かれているのです。


だから、「知らなかった」「誰も教えてくれなかった」は言い訳にならないのです。


そして神様もまた、「あなたのほうから述べたてよ」と言われるお方です。





そうです、私たちクリスチャンもまたぼんやりと「待つ」だけではダメなのです。


そしてまた、この聖書の中に自分にとってどれほど益になる神の約束が散りばめられているかを知らなければなりません。




そうです、たとえイエス・キリストを通して神の子供とされていても、みことばに関する知識がないのなら、私たちは敵である悪魔に簡単に欺かれ、恵みから落ちてしまうのです。


知識がない、というのは、この世の知識の事ではなく、みことばの事なのです。


私はかつて、みことばの知識をないがしろにしてきた人間でした。


それで、敗北の人生を歩んでいました。


自分が身体障害者になってみて、いつもたくさんの申請が必要な身になって、信仰生活もまた、自分の方から神様に申請(みことばを根拠に祈ること)しなければならないのだと気づかされました。


この世の制度さえ、知っている人と知らない人とでは日々の生活に雲泥の差がついてしまうのなら、霊的な面においてはなおさらです!


みことばを根拠に祈ること、それにはまずできる限りたくさんのみことばを暗記しておくのが最も良い手段です。(各種みことばカードがお役に立ちますように!!!)




みことばに心を留めたらな、それを信頼して祈り求めましょう!



あるいは、「聖書には○○と書いてある!サタンよ退け!」と悪魔悪霊どもを撃退しましょう!





これこそが信仰なのです。


God bless you!



※余談ですが、旧約聖書の律法を読んでいくとき、現代の先進国にも勝って古代イスラエルは何と素晴らしい福祉国家であったかと驚嘆せずにはいられません。私たちの父なる神は、この世で最も弱者と言われる者にどれだけの気づかいと現実的なご配慮をされているかと驚きます。まさに「神は愛なり」です。主を褒めたたえます。(参照:申命記24:19~)

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