日本人クリスチャンに伝えたい、正しい救いのプロセス

あなたはどのような過程を経たクリスチャンですか?

 私が今まで、クリスチャンの方々の霊的解放のお手伝いをしてきてわかったのは、こうです。福音派のクリスチャンでも、驚くことに聖霊派のクリスチャンでも、多くの方が同じような問題を抱えていることです。

 

 どのようなことかと言うと、代表的な症状としては「束縛と呪いからの解放」でレベル1~レベル3に示した通りです。

 

 その他にも、礼拝が始まると酷い頭痛や吐き気がする、祈祷会に参加すると重苦しい気分になる、睡魔に襲われるなどもあります。また生活面でよくある例としては以下のようなものがあります。

 

①貧困、あるいは、いつも経済的に不十分である。

②不妊、不能、流産、及びそれに関連する女性の病気

③失敗。さまざまな計画や企画が災いに会う。

④不意の不自然な死。

⑤さまざまな病気や患い。特に、慢性的、遺伝性の病気。

⑥人生のさまざまな衝撃的事件。次々と危機に直面すること。

⑦精神的、情緒的衰弱。

⑧家族関係の崩壊。離婚を含む。

⑨神の声を聞き、神の臨在を感じ取り、聖書を理解し、祈りに集中すること・・・などへの霊的妨げ。霊的賜物がないこと。

バプテスマのヨハネについて 

 さて、これを読んでおられる方のほとんどが既に【水のバプテスマ】を受けたクリスチャンであろうと思います。

 

 そこでお聞きしたいのですが、みなさんはどのようなプロセスを通ってクリスチャンになったでしょうか?みなさんは、聖書が伝えている本当の悔い改めの重要性を理解しておられるでしょうか?

 

 私が水のバプテスマを受けたのは中学一年生の時でした。洗礼準備期間として約一か月、一緒に洗礼を受ける他の数名の方たちと共に、宣教師の元で聖書の基本的な学びをしました。

 イエス様のこと、聖書のこと、歴史的なこと、聖書パノラマというテキストを使って、再臨のイエス様や千年王国に至るまでの事も学びました。そして、洗礼式で人々の前で読み上げる文章を書きました。

 

 自分が本当は罪深い者であったことを認め、これからは主に従って生きて行くという決心を述べたと記憶しています。私は長年、これで十分であると思っていました。

 その後の人生で、幾人ものクリスチャンに出会いましたが、ある方が行かれた教会の牧師さんは、洗礼を受ける前に今まであなたが犯した罪を全てノートに書き出すように言われた、と聞いたこともあります。

 

 その犯した罪の中に、子供の頃に自転車泥棒をしてしまった、というようなことが含まれていたことが印象的でした。そういうことが悔い改めなのかなぁと私はぼんやりと考えていました。

 しかし、ニール・アンダーソン博士の著書、「鎖を解き放つ主」に出会い、また私自身が「キリストにある解放のステップ」に取り組み、事細かに悔い改めるべきことを悔い改め、歪んだ信仰を正していくにつれ、今まで自分を覆っていた様々な束縛と呪いの元から解放されていき、そしてその後に聖書を読むと、ただそれだけで驚くほど理解力が深まり、神を知るための知恵と啓示の御霊(エペソ1:17)に満たされる事を体験しました。

 そしてある時、私は新約聖書を読む中で大変重要なことに気づかされたのです。それは、バプテスマのヨハネの存在です。

 

マタイ3:1~6

そのころ、バプテスマのヨハネが現われ、ユダヤの荒野で教えを宣べて、言った。 「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」 この人は預言者イザヤによって、「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」と言われたその人である。 このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった。 さて、エルサレム、ユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、 自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。

 

マルコ1:1~5

預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」

そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

 

ルカ3:3~6

そこでヨハネは、ヨルダン川のほとりのすべての地方に行って、罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説いた。 そのことは預言者イザヤのことばの書に書いてあるとおりである。

「荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
すべての谷はうずめられ、すべての山と丘とは低くされ、曲がった所はまっすぐになり、でこぼこ道は平らになる。こうして、あらゆる人が、神の救いを見るようになる。』」

 

 イエス様が登場される直前、ユダヤ人たちがしたのは、罪が赦されるための徹底的な罪の悔い改めだったのです。

 

 バプテスマのヨハネの、主が通られる道をまっすぐに整えるという働きはそういう意味だったのです。彼の働きは、決してオマケや前座のようなものではありませんでした。

 

 霊的な深い意味がありました。これが救いのプロセスの重要な第一歩だったのです。

マルコ13:24

この方がおいでになる前に、ヨハネがイスラエルのすべての民に、前もって悔い改めのバプテスマを宣べ伝えていました。

 また、イエスの宣教の第一声も、12弟子たちの伝道の第一声も、人々に悔い改めを説くものでした。

マルコ1:14~15

ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

マルコ6:12~13

こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。

(昨今、悔い改めなしの福音伝道や病のいやし、悪霊追い出しの集会が多いと感じますが、聖書から見るとずいぶん片手落ちではないでしょうか?)

聖書的罪感とは 

 私たち日本人は聖書的に言うならば【異邦人】であり、当時のユダヤ人達が先祖代々受け継いできた旧約聖書に乗っ取った考え方という背景を持っていません。

 

 だから一般的に日本人が考える【悔い改め】というとき、単に「ごめんなさ。」と言うだけのあやふやな感じになりがちです。

 

 しかし、旧約聖書の背景を持つユダヤ人たちにとっての悔い改めとはどういうことだったでしょうか?彼らに学ぶことが最も効果的です。

 

 私が旧約聖書を読む中で、みことばにより示されてきた幾つかの点を書き記したいと思います。しかしそのためにはまず、聖書が言うところの【罪】とは何かを知らなければなりません。

 

 このことに関して、パウロが異邦人教会に宛てた手紙の中で的確に表現しています。

 

ローマ7:7~13

それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。しかし、罪はこの戒めによって機会を捕え、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。私はかつて律法なしに生きていましたが、戒めが来たときに、罪が生き、私は死にました。それで私には、いのちに導くはずのこの戒めが、かえって死に導くものであることが、わかりました。それは、戒めによって機会を捕えた罪が私を欺き、戒めによって私を殺したからです。ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。

 

 つまり、神が与えられた【律法】とは良いものですが、しかし律法違反をしたときそれは【罪】となるのです。

 このような考え方は生まれながらの異邦人である私たち日本人にはないのです。しかし私はかつてこう思っていました。

 

 そもそも【律法】というのはイスラエルの民に与えられたものであって、異邦人は関係ないのではないか。ただクリスチャンになった時からは無視できないものになるのであろう。

 

 それは聖書的根拠のない勝手な考え方でした。しかし、旧約聖書にははっきりと次のように書かれていることにある日気づかされたのです。

 

申命記29:12、14、15

あなたの神、主が、きょう、あなたと結ばれるあなたの神、主の契約と誓いとに、はいろうとしている。わたしはただあなたがたとだけ、この契約と誓いとを結ぶのではない。きょう、ここで、われわれの神、主の前にわれわれと共に立っている者ならびに、きょう、ここにわれわれと共にいない者とも結ぶのである。

 何と、律法を知ろうが知るまいが、全ての人間が神様の定めた戒め=契約の元に生かされているというのです!

​ 他にも、パウロが異邦人クリスチャンに宛てた手紙の中で次のようにはっきりと書かれています。

Ⅰコリント15:56

死のとげは罪であり、罪の力は律法です。

 

 【律法】という神と人との契約、つまり【律法】を守れば祝福が与えられ、【律法】に違反すれば呪いのもとに置かれる、という契約は、単に神がイスラエル人とだけ結ばれたものではなく、イスラエル人以外のすべての異邦人、全人類がこの契約の中に入れられたというのです。

 

 もしそうでなかったなら、たとえ私がクリスチャンになる前に熱心に偶像崇拝をしていたとしても、それは神の御前に【罪】とは見なされなかったでしょう。

 

 ただ単に、クリスチャンになったからには今後はそのようなことはいたしません、という態度を取るだけで十分だったでしょう。

 

 しかし先に示した聖句によれば、実際にはそうではありませんでした。

 

 日本人がクリスチャンになる際に悔い改めるべき問題として、真剣に取り組まねばならない事柄は、まことの神が最も忌み嫌われる偶像崇拝です。

 

 また占いやオカルトです。

 

 それは、まことの神を差し置いて、本来神ではないものに、霊的な力や知識を得ようとする行為です。旧約聖書、新約聖書全般が一貫してこれらの事を強く戒めています。

 

(その他の律法違反の主だったものについては、Pdfファイル【呪いをもたらす罪の参照リスト】を参考になさってください。)

 

 イスラエルの民の歴史を見ると、彼らが一番気をつけなければならなかったのが、やはりこの偶像崇拝でした。

 

 偶像崇拝に満ちていたエジプトでの奴隷生活から救い出された彼らのその後は常に、アブラハム・イサク・ヤコブの神に従うか、あるいは偶像崇拝をしている異邦人の習わしに従って偶像崇拝に戻ってしまうか、の二者択一でした。

 

 そして、神に従っているときには祝福がありましたが、彼らが偶像崇拝に陥ったとき、必ず災いが降りかかりました。せっかく奴隷から解放されたのにも関わらず、再び捕囚の民となってしまいました。

 

 申命記28章1~13節には、律法に従っているときに与えられる数々の祝福がリストアップされていますが、申命記28章15~68節では一転、読んでいるだけでも気が重くなるような数々の呪いがリストアップされています。

 

 私はある時から、レビ記、民数記、申命記、を熟読してみたのですが、それらを踏まえ上で聖書の続きを読み進めて行くと、驚くほど内容が理解できるようになりました。

 

 律法に従っているなら祝福と繁栄があり、逆に偶像崇拝や不品行などの律法違反がある時、それは個人においても国家においても、恐ろしい結末を見ることとなっているのです。

 

 神には、日本人の好きなグレーゾーン、あやふやなところなど一切ないのです。

 

 旧約聖書のどこを読んでも、祝福か呪いか、というあまりにものシンプルさに私は本当に驚きました。

 

 しかしそれは、そもそも神がきっちりと契約という形で先に示されていたことに対して私が無知だっただけなのです。

 

 しかしここではっきりと言っておきたいのは、律法を守らねば救いを得られないと言っているわけでありません。もしそうならば、イエス・キリストの十字架に何の意味も見いだせなくなってしまいます。救いは信仰によるという大前提を覆すことになってしまいます。

 

 また既にクリスチャンとなっているみなさんの永遠の行く先が危ぶまれるというのではなく、今この地上での人生が神の子供として当然受けるべき祝福に満ちているかどうかにかかっているという事なのです。

 

 そのために、【水のバプテスマ】を受ける際にしなければならないことが、徹底的な【罪の悔い改め】なのです。そしてまた、この【罪の悔い改め】というものが、聖書にはどのようにされるべきかもはっきりと書かれています。

【罪の悔い改め】には告白が伴う。

 旧約聖書を見ると、人々が罪を犯した場合に必ずしなければならなかったのが、動物の犠牲だけではなく、「私は○○の罪を犯しました。」というような具体的な罪の【告白】でした。

 

レビ記5:5

これらの一つについて咎を覚えるときは、犯した罪を告白しなさい。

 

詩編32:5

わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。

 

箴言28:13

自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

 

Ⅰヨハネ1:9

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 

 このように、【罪の悔い改め】とは漠然としたものではなく、自分がどのような事をしたかという具体的な告白が伴うのです。また、先祖が犯した罪に関しても知りうる限り自分のものとして告白し悔い改める必要があります。

 

 今まで、「クリスチャンに呪いなんてあるわけがない。洗礼を受けた時点でそういうものからは解放されているのだから。」というようなことを耳にしてきましたが、本当にそう言えるのは、先に書いたように、【罪の告白と悔い改め】が成されている場合のことだったのです。

 

 そのようにして初めて、次の聖句が自分のものとして適用されるのです。

 

ガラテヤ3:13~14

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。 このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

 

 主をほめたたえます!

こうしてクリスチャンは律法のもたらす数々の呪いから解放されることができるのです!

告白の二面性 

 また、【告白】の重要性には大きく二つの点があります。

 

 旧約聖書の時代、多くの場合それは人が犯した具体的な【罪の告白】であり、アブラハム・イサク・ヤコブの神への【信仰告白】でしたが、新約聖書においてそれは同じく【罪の告白】と救い主イエスに対する【信仰告白】へと変わります。

​ 今の時代、救いは律法を行うことによるのではなく、ただイエスを信じる信仰によって与えられます。

 

ローマ10:9~10

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 

ピリピ2:11

すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

 

マタイ16:16

シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

 

 つまり、ペテロの信仰告白に代表されるように、私たちもまた、イエス・キリストを自らの主として告白するのです。非常に重要なことです。

 

 私の例でいうならば、中学一年生の時に受けた【水のバプテスマ】において、この【信仰告白】をしたものです。

 

 しかし残念ながら、【罪の告白と悔い改め】に関しては誰も何も教えてはくれませんでした。クリスチャンになってから年数だけが経ち、30年もたってから後ようやく、私はこれら二つの重要性に気づかされたのです。

 

 多くの日本人は、特に何かの宗教に熱心なわけではなくとも、生まれながらに神社仏閣や宗教行事などの偶像崇拝に囲まれて育っています。

 

 知らず知らずのうちにでも、その影響を色濃く受けているのです。旧約の時代において、神はイスラエルの民に次のように注意喚起しています。

 

レビ記18:30

それゆえに、あなたがたはわたしの言いつけを守り、先に行われたこれらの憎むべき風習の一つをも行ってはならない。またこれによって身を汚してはならない。わたしはあなたがたの神、主である』」。

 

申命記18:9

あなたの神、主が賜わる地にはいったならば、その国々の民の憎むべき事を習いおこなってはならない。

 

 他の箇所でも、異邦人の忌むべき風習に倣ってはいけない、と再三注意されています。それによって律法の呪いを自ら招き入れることになるからです。

 

 ところがそもそも、私たち異邦人クリスチャンは最初からそのような偶像崇拝や占いオカルトや霊媒などが当たり前に蔓延している国に生まれ育っているのです。

 

 だからでしょうか、クリスチャンになってからもこれら神の忌み嫌うべき事柄に関して、深刻に捉えることが難しいのです。

 この日本に数多くの宣教師がやって来て、日本人ならではの非キリスト教的宗教観に伴う行事がダメ出しされてきました。しかし日本人からすると、それらは反発を覚えるようなものです。

 

 私個人として感じるのは、いつの間にかキリスト教会の中で、非キリスト教的宗教観に伴う行事が日本の伝統文化であると捉えられるようになってきていると思うのです。

 

 或いは、いちいち細かく目くじらを立てると世の人々からクリスチャンが嫌われて、かえって福音宣教の邪魔にすらなる、という考えもあるのではないでしょうか。非常に短絡的で肉的な考えです。

 

 私がまだ神学科生だった頃、同じ科に仲の良い友達がいました。彼女はチャキチャキの江戸っ子という感じでした。

 

 彼女の家は私同様クリスチャンホームではなく、高校生の時に救われたのだと聞いていました。その彼女がある時、肩がパンパンで痛いと言いました。その理由はこうでした。

 

 彼女は学校の休みの日にそれまでずっと楽しみに参加していたお祭りに参加し、本格的にお神輿を担いできたのだと言うのです。それで肩が痛くなったというわけでした。

 

 私は同じ神学科生としてその話に非常に驚いたのですが、彼女があまりにもあっけらかんとしているので、どういうわけか日本のお祭りは伝統文化なのだからクリスチャンが参加するもしないも自由なのではないか、そうなのかもしれない、と思ったのでした。

 

 別に信仰が失われたわけではなのだから、うるさいことを言わなくてもよいのではないか、と思ったのでした。

 私自身、洗礼を受ける前には、自分の意思ではないけれど七五三もやったし、初詣や地域のお祭りや盆踊り等、楽しみの一つとして気軽な気持ちで参加していました。(既に悔い改めと断ち切りの祈りをしています。)

 

 つまりはそれだけ私たち日本人にとって、非キリスト教的宗教観に伴う行事が日常に入り込んできているという事です。しかし神はそれらの風習に倣ってはいけないと語っておられるのです。

 

山車引きや神輿を担ぐなどの地域の祭りとて、単なるイベントではなく本来は宗教的な意味があるのであり、異教の神々、つまり悪魔・悪霊どもに奉げられているのですからクリスチャンは参加すべきではありません。創造主なるまことの神だけに仕えるべきです。

出エジプト記20:3

あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

 

Ⅰコリント12:2

ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。

ローマ12:2

この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

  

Ⅰペテロ1:15~19

あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいてきよくなりなさい。それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。 また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

 

Ⅰヨハネ5:21

子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。

悪魔は騙して人々を捕らえる

 非キリスト教的宗教観に伴う行事のように、私たち日本人からすると「罪」と自覚できないことでも、聖書をよく読むなら、神の御前に罪とされることがあることを覚えるべきです。

 

 クリスチャンになったらそのような習わしからは離れるのは当然ですが、クリスチャンになる以前に関わっていたそれらのことに関しても、徹底した【悔い改めと断ち切り】が必要です。

 

 その理由を簡単にご説明しましょう。

 もし人がクリスチャンになる以前に非キリスト教の宗教儀式や偶像崇拝、オカルト占い等に関わっていたとするならば、それは本人がそうとは認めたかどうかに関わらず、自らを悪魔(サタン)の支配の元に置くことと同じなのです。

 

 興味本位からした行為だとしても時に重大な霊的影響を受けてしまうことがあります。聖書は悪魔の性質をこう言っています。

 

ヨハネ8:44

悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

 

 れっきとしたサタン崇拝者でもなければ、ほとんどの人はそれが宗教心に厚い良い事であると信じて偶像崇拝をするのだと思います。或いは単なる伝統的なイベント行為としてしか考えていないかもしれません。しかし既に騙されているのです。なぜなら聖書は次のように述べているからです。

 

出エジプト記20:3~5

あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。

あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。

それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし……

 

申命記27:15

『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。

 

 偶像崇拝は呪いの元となる絶対にやってはいけないことであり、時に本人だけでなく家系全体が悪影響を受けてしまうのです。

 

 さて、私たちの人生の中で、もっとも重大な契約と言ったら、それは結婚です。霊的な事柄を結婚に例えるならば、偶像崇拝をするということは、自らを悪魔に奉げてしまっているということです。

 もし人が最初の結婚で問題が生じた場合、きちんと離婚手続きをしないまま他の誰かと再婚するならどうなるでしょう。もしかしたら、かつての夫が追いかけてきてこう言うかもしれません。

「お前はまだ俺の妻だ。俺の家に戻ってこい。」

 そう言って、今の結婚生活を激しく妨害するのではないでしょうか?確かに法的には最初の結婚が無効になっていない限り、例え警察に駆け込んだとしてもなす術はないというものです。

 

 このようなトラブルから解放される最も効果的な手段は、当然のことながらまず最初の夫と正式に離婚することなのです。

 

 霊的な事柄に関してもそれと全く同じように、過去の偶像崇拝等のしがらみをきちんと断ち切っておかないままに、キリストの花嫁になったとしたら、怒り狂った悪魔があの手この手であなたのクリスチャン人生を妨害したとしても不思議ではありません。

 霊的な離婚手続きである【断ち切りの祈り】の根拠は次のみことばです。

マタイ18:18

まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。

 新約の時代のクリスチャンはキリストにあって「解く=断ち切る」権威が与えられています。

 

 ですから、神の御前に示される罪があるならば、「私は○○との関わりを持っていたことを告白します。今その罪を悔い改め、イエスの御名により○○との関わりを断ち切ります。」と宣言して祈るべきなのです。

​  またもし、偶像やオカルトに関わる物を所有していたならば、罪の告白と共に速やかに破棄するべきです。次のみことばがその事を的確に示しています。

使徒行伝19:18~19

そして、信仰にはいった人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行なっていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。 

 もし、洗礼を受けてクリスチャンになったとたん次々に災いに見舞われた、という方がおられたら、これらのことをよくよく吟味していただきたいと思います。

 

 これをしないままに受洗して大変な目に遭ったある姉妹の話を私は忘れることができません。この姉妹は子供の頃から家にある仏壇を拝むことが習慣だったようです。

 

 大人になって嫁いだ先は仏具屋さんでした。しかしキリスト教会に通い始め、イエス・キリストを信じる決心をしました。

 

 いよいよ彼女の洗礼式が近づいてきました。しかし洗礼式の前の日のこと、彼女は頭の中で恐ろしい声を聞いたというのです。

「お前は俺と神との両方に仕えることはできないんだぞ!」と。

 しかしなす術もなく、翌日には予定通り洗礼を受けました。その後彼女の精神状態はおかしくなり、牧師の勧めで精神科にかかり、とうとう精神病院に入院することとなったそうです。

 

後々、私がそのことを直接ご本人から聞いたとき、偶像崇拝とキッパリ縁を切ることを勧めたのですが、彼女曰く、「仏壇を拝むと調子がいい。」ということで、それを手放すことはしたくないと言われてしまいました。本当に残念な出来事でした。

 

 つまりは、霊的な世界での元の夫のところに戻って行ったという事です。

 

 私は彼女に洗礼を授けた牧師に、彼女の問題の原因は悔い改められていない偶像崇拝であると説明したのですが、まともに取り合ってはもらえませんでした。

 

 牧師であっても、このような事柄に対する正しい対処法を知らない方が多いのも非常に残念です。

 

 日本のキリスト教会がなかなか成長できない原因のひとつに、日本人クリスチャンがいつまでたっても霊的束縛から自由になっていないからではないかと私は考えています。

 

 もし最初のボタンが掛け違っていたならば、最後のボタンまでずっと掛け違ったままなのです。それと同じように、救いのプロセスにおいても、【罪の告白と悔い改め】をしないままクリスチャンになっているのなら、年数ばかりが経っても一向に成長しないどころか、問題だらけの人生を歩むことになってしまうのです。

 

 また、せっかく救われても一年ほどで教会から離れてしまう方が多いことも、このようなところに原因があるのではないかと思います。

クリスチャンの成長に欠かせない段階 

 さて、本来あるべき救いのプロセスは更に続きます。

【悔い改め】と【水のバプテスマ】に続き【聖霊のバプテスマ】に関することも大変重要です。

 

 私が育ったのは、福音派のキリスト教会でしたが、【聖霊のバプテスマ】に関しては一度も聞いたことがありませんでした。

 

 当然、異言や預言などについてもそのような聖書箇所は常にスルーでした。それが一体何なのか、疑問はあっても誰にも聞くことができない状態でした。

 また私は、キリスト教会には他に聖霊派と呼ばれる人たちがいることも長年知りませんでした。

ペンテコステ系のキリスト教会の方たちは、異言を伴う聖霊のバプテスマを非常に大切にしておられると思います。がしかし、私が解放の働きに関わるようになってあることに気づいたのです。

 

 これまで幾人ものクリスチャンから霊的圧迫からの解放に関して相談を受けました。その時私は決まって質問するのです。「あなたは聖霊のバプテスマを受けていますか?異言は語れますか?」と。 

 すると、驚いたことにほとんどの方が聖霊のバプテスマを受けており、異言を語ることもできるのです。

 

 ある兄弟は、日々自殺願望にさいなまされ、自分では意図していなのに奇声を上げてしまうという酷い症状に苦しんでいました。おそらくこの世でなんとかしようと思うならば、彼の行き先は精神病院の閉鎖病棟しかないでしょう。

 

 ところが、このような状態にありながらも、彼は聖霊のバプテスマを受けていたのですから私は本当に驚いてしまいました。その後、「キリストにある解放へのステップ」を踏むにつれ、彼の自殺願望と奇声は収まったのでした。

 

 主に外国の働き人が書いた著書では、聖霊のバプテスマこそがクリスチャンの成長において重要な役割を占めるのだというような書物が多くあります。それは正しいです。

 

 そして多くの日本人クリスチャンが、「聖霊のバプテスマさえ受けられれば私の人生は飛躍的に変えられるに違いない。」と期待するわけです。

 実は私自身も過去に、アルコール依存症、摂食障害という問題がありながらも、既に異言を語れるようになっていました。

 

 聖霊のバプテスマを受けているのに依存症三昧の人生、常に自殺願望の付きまとう暗闇の人生だったのです。結果的にはショッピングセンターの立体駐車場から飛び降りるという悲惨な結末に至ってしまいました。

 それと同じように、幾人ものクリスチャンの方々のお話を聞くと、過去の私と同じように、【水のバプテスマ】も受け更には【聖霊のバプテスマ】も受けた年数の長いクリスチャンであるにも関わらず、あらゆる束縛を受けており、呪いのもとにありました。

 そこで導き出されたのは、多くの方が聖書的な【罪の告白と悔い改め】がされていなかったり、或いは先祖から受け継いでしまった【家系の呪い】をイエスの御名によって断ち切らないままに【水のバプテスマ】を受けているという結論でした。

 

 また、真理のみことばに逆らって様々な偽りを信じている事も解放を妨げる大きな要因です。

 

 更にはそのままで、【聖霊のバプテスマ】を受けているので、力強く成長するどころか、何かがおかしくなってしまうのです。

 

 つまりは救いのプロセスがぐちゃぐちゃなのです。

 

​ 聖霊のバプテスマを受けたり異言が語れても、そ人が日常的に聖霊に満たされ続けているかどうかは別の問題なのです。

【聖霊のバプテスマ】については、ホームページの《聖霊のバプテスマと異言》というページを是非ご覧ください。

おさらい 

 最後に、救いのプロセスについて簡潔にもう一度書いておきたいと思います。

 

 ①罪の告白と悔い改めにより罪が赦される。

 ②水のバプテスマによりイエス・キリストにあって新しく生まれ、神の子供となり永遠のいのちが与えられる。

 ③聖霊のバプテスマにより上よりの力である賜物が与えられる。

 

 もしこのプロセスのうち抜けているものがあるならば、今からでも遅くはありません。最初のボタンが掛け違っていたならば、今すぐにでもかけなおす作業に取り組んでください。

 これらがきちんと成されているならば、聖書が驚くほど理解できるようになり、霊的な事柄に関しても敏感になっていきます。日ごとキリストに似た者へと変えられ、また大胆な神への奉仕の人生へと変えられていくことでしょう。

 

詩編139:23~24

神よ、どうか、わたしを探って、わが心を知り、わたしを試みて、わがもろもろの思いを知ってください。わたしに悪しき道のあるかないかを見て、わたしをとこしえの道に導いてください。

 

ローマ12:1~2

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、きよい、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 

主イエス・キリストの恵みが皆様とともにありますように!

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私たち新契約の下にある異邦人クリスチャンが負っている注意点

使徒行伝15章28~29節

聖霊と私たちは、次のぜひ必要な事のほかは、あなたがたにその上、どんな重荷も負わせないことを決めました。 すなわち、偶像に供えた物と、血と、絞め殺した物と、不品行とを避けることです。これらのことを注意深く避けていれば、それで結構です。以上 。

​ユダヤ人の律法は厳密に613あると言われていますが、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされた、日本人も含めた私たち異邦人クリチャンが注意深く避けなければいけないのは以上の4点であることが聖書によって示されています。間違って律法主義に陥らないようにご注意ください。

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